2011年09月22日

なぜお墓をつくるのか?

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先日、孫の愉菜ちゃんのお父さんのお父さんがミラノに来た。心待ちにしていた。汗もすぐ乾くマジックなきれいな山のシャツをいただいた。ありがとう。今週末、これを着て、スイスアルプスに登る。
さて、ミラノのどこにお連れしようかと迷った。はたと思いついたのが墓地だった。記念碑的墓地Cimitero Monumentaleと呼ばれるところは、意外と面白い。1860年にオープンしている。いわば、ミラノが最も都市建設が盛んだったころで。この頃から1920年頃まで、が最盛期だったといえる。その時代に亡くなった人たちのお墓も、単なる墓標があるだけではない。豊かさに応じて、その時代の著名な彫刻家の力を借りて、思う存分というか思うままのお墓が作られている。こんなバラエティに富んだ、アーティスティックな所は他にはない。

ところで、なぜ人はお墓をつくるのか?
ここのお墓のスタイルのなかに、年老いた夫が先に亡くなり、その夫の死を嘆くように、妻がお墓にひざまずくというのがある。すこし、歩いて見て回っても意外と多く見つかる。確かに、自然の様に見える。頼りにしていた夫の死、生前の楽しい生活や思い出など。しかし、普通、亡くなった夫は7、80歳だとすると、妻も近い年齢なはず。でも、ほとんどの妻の像は、若くて、ほっそりと、どう考えても、不釣合いだ。しかも、全てが、同じパターンで、妻は美しく初々しい姿だ。そして、場合によっては、妻が先に亡くなり、夫が妻のお墓で嘆く。というものがあっても不思議はないが、決しては見当たらない。当然、現実にはそのようなケースもあったに違いないが、お墓のスタイルには無い。
それは、夫が先に亡くなった場合は、妻がお墓を彫刻家に注文する。だったら、太った老いた自分よりは、若かった頃の姿を再現したいだろう。だからお墓は生き残った妻の思いの表れなのだろう。では、妻が先に亡くなった場合は、若い青年が、年老いた妻の墓の前で嘆くのは、どう考えても、絵にならない。母の死と間違われるし、青年がお墓にしなだれかかるのも想像できない。この場合には、妻のお墓だけとなる。あるいは、妻が亡くなってせいせいしたのかもしれない。
いずれにしても、お墓は、残された者の思いであって、残された者のためにつくられるのだ。決して、死んだ者のためではない。なぜお墓をつくるのか?の問いに、単純だけれど、重要なヒントになった。
こんな会話が聞こえてきた。
「お前、ずいぶん若づくりじゃないか?」
「あなたが生きていたときは、お世話が大変だったのよ。そのご褒美に彫刻家に若く作ってもらったの。これからはのんびり暮らしていきますよ。」
タグ:お墓
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2011年09月20日

走りながらの妄想

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私は戦いのために毎日公園を走っている。この公園は、ジャルディーノ・プブリコとつまり公園という名の公園だ。1週すると15分かかる。完全にランニングするわけではなく、ゆっくり走って、疲れたら歩く。その割合が、数週間前は5走り5歩く、が最近は7走り3歩く、になってきた。いつか全走りにしたい。時間はまだ、1周15分かかる。30分走って400か500Kcalの消費のつもりだ。
走っていると、いろんなことが頭に浮かぶ。とくに、この公園は、走る前からお付き合いがあったせいで、そこでの思い出が、頭をよぎる。入り口には、たぶん戦前からのプラネタリウムが健在だ。ここが走りのスタートだ。水飲み場があって、ストップオッチを押す。この天文ドームでは、子供向けの星の語りばかりではない。月に何度か、天文マニアの集まりが開かれる。かなり高度で、たとえば、ブラックホールは存在すか?とかいうテーマで、学者が講演をする。難しくて理解に苦しんだ。そして、まっすぐ走ると、公園のなかに幼稚園があって、そこを横切る。そうすると、バルがある。かつては、散歩の途中、ここでビールを飲みながら新聞を優雅に読んだなー。この近所にドルチェ、ガバーナデザイナーが住んでいて、ときどきコーヒーを飲みに来るらしい。さらに走ると、偉大なジャーナリスト、モンタナーリの銅像の前を通る。この近くの新聞社で仕事をしていて、よくここにきたのだろうか?そして、コーナーを曲がったら、お金持ちのスイス会館だ。友人と講演を聞いたり、食事をしたな。そうして、隣は、現代美術館PAC。こんどはSilvio Wolfという人の写真のアートの個展らしい。期待を裏切らないで。で、その隣が王宮で、今は20世紀美術館が出来たから、いわば19世紀美術館になっている。この時代の絵や彫刻ではお金が取れないらしい。と、実は昨日入ってみたけど、19世紀という時代は、全てが終わりで、レベルは地に落ちた感がある。絵画の技術レベルではなくて、精神だ。とか、思いながら、自然博物館の前を通り過ぎる。これも前時代の遺物で、中身を作り直して欲しい。これでは自然に興味がわかないよ。ついに、出発点のプラネタリウムに戻って来た。走りながら、もう少し、下品な妄想にとらわれることもあるが、この次にご披露しよう。はあはあ、しながら最後の直線コースだけはラストスパートをする。というのは、このコースには、ベンチが道の両側に並んでいて、見物人が多いので、自然と力が入る。でも、見物人と思っているのはこちらが勝手にそう思っているので、彼らは、走る行者には何の関心も持っていないのだ。はあはあはあ、水飲み場にたどり着いた。
タグ:ランニング
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2011年09月15日

銀の額縁

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先週の土曜日に近所に市場に行った。いつもの野菜を買いに。実は、市場のバンコと呼ばれる間口2間ほどの店が並んでいて、半年くらい別のバンコで買い物をしていた。やっぱり、いつものおじさんの所の野菜がおいしいということに気が付いた。サービスはイマイチだけど、おいしい野菜には勝つことが出来なかった。久しぶりに訪ねてみた。いやーどうもと言ったら、えらく歓迎された。ようこそ、ようこそとうれしそうに握手を求めてきた。今度こそ、反省して野菜の勘定をごまかすなよ。とこころで言って、相手の顔を見た。
ということがあったのだけど、その前に、市場をぐるりと、まわってみた。そうしたら、めずらしく、古道具屋が出ていた。新しいが古く見せたいかにも安物の楕円の額物と、本当に古いいい感じの金属の額があった。当然、前者が安く、後者は高いと思ったら、逆のことを言う。前が20ユーロで後者が5ユーロだと。いくらなんでも、わかっていない、このオヤジ。もちろん金属の額を買った。これが写真の額だ。たぶん、戦前のもので、写真が前の持ち主のものと思われる。風格のあるご主人と明るく美しかった、幸せそうな満ち足りた初老の婦人だ。彼らの邸宅の庭で撮ったものだろう。セピア色の写真は、そのままに飾ることにした。この額縁は、重さ、さび具合からして、たぶんムクの銀製のようだ。無理やりそう決めた。模様も葡萄唐草の銅鏡のようで、いぶし銀が美しい。誰だかわからないこの写真と一緒に大切に飾っておこう。なぜかって。しあわせを分けて欲しいと思ったから。
タグ:額縁
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2011年09月11日

私の苦しい戦い

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昨晩は、友人たちとビールを飲んだ。ミラノの南に20キロくらい行った田舎の釣り堀で、ドイツビールのお祭りがあった。釣り堀は、友人が投資しているが経営が思わしくなく、ビールを飲ませてお客を呼ぼうという作戦だ。昨晩はうまくいって、席は満員だった。
私は、ビールを1.5リットル、おかずは、スティンコといって骨付き豚肉の煮込みとソーセージだ。相当なカロリーだ。計算してみると、ビールは100mlが34kcalで510kcalとなり、スティンコは100gが150kcalで300g程度だったから450kcalで、ソーセージは135kcalしめて、1195kcalだ。こまった。案の定、今朝は、予定より400gオーバーで76.4kgとなっていた。実は、こういうこともあろうかと思って、ビールの前に、公園を2周した。たぶん4Km走った。が、ダメだった。
実は、山登りのために、ダイエットに挑戦している。目標は月に1キロ体重を減らすことだ。これが難しい。いろんな人のアドバイスを聞いた。まず、100g単位が出る、デジタルの体重計を買った。次に、毎朝、起きたら定期的に測定して記録する。次に、食事のカロリーを計算する。そのために、写真のカロリーが出ている本を買った。全ての食品が出ている。普通は、私は毎日1900カロリーを食べる。そして、基礎代謝は1500キロカロリーだから、残り400カロリーだ。これで、公園(Giardini Publici)を2周する。まじめに走れば500キロカロリーが消費できる。そうしたら、毎日、体重が200〜300g落ちる計算だ。ダイエットとは算術だった。しかし、そうは問屋が卸さない。昨晩のように、土日に、食べるとすぐに振り出しにもどる。苦しい戦いが続いている。いつかは、70キロを切って、山をすいすいと登りたい。
タグ:ダイエット
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2011年09月09日

IKEAは素晴らしい

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先日、といってもかなり前だが、ミラノのイケアに行った。作業用の小さなテーブルを購入するのが目的だ。毎度のことだが、イケアの販売戦略にはいつも感心する。電車の終点のビシェリア駅から送迎バスが出ている。かつてはタダだったのが1ユーロを取るようになった。イケアに着いて、階段を上がり、2階が入り口となっている。この2階に、住生活についての全てのショールームになっている。キッチン、食堂、居間、子供部屋と展示されていて、住まいの夢をリーズナブルに具体化させている。全ての商品には価格と番号があって、買いたい人は、メモを取る。紙と鉛筆はフリーだ。一通り見ると、何かしら欲しいものがあるのが不思議だ。大物は値が張るけど、小物ならカゴにいれてしまう。店員さんに、このテーブルが欲しいと言うと、1階の倉庫の何番の棚にあると、教えてくれる。2階がショールームで、1階が倉庫だ。自分で商品をレジに運んで、支払いをする。しかも、買ったものは、完成品ではない。テーブルなら、板と足に分かれていて、自分で家に持ち帰って組み立てる仕組みだ。組み立ての費用が無い分安い。全てが、ベルトコンベアーのように、ショールーム、倉庫、レジ、自宅の順に進み、最後は自分で完成させる。実によくできている。
私は、つねづねビジネスはコミュニケーションだと思っている。人と人のつながりは基本だけれど、イケアは物と人とのコミュニケーションをシステムとして完成させている。単に、お金を払って物を入手するのも、一種のコミュニケーションだと思うけど、購入のプロセスが、見せて、運んで、買わせて、完成させる。一つ一つのかかわりに、こちら側が手を貸すというところが、巧妙だ。普通、サービスとは、相手がしてくれるものだけれど、イケアはお客が、自分のためにサービスする。自然にその気にさせるところがすばらしい。そして、そのプロセスの中に、ファミレスの様なレストランがあって、買い物にきたのか、食べに来たのか、わからなくなるくらいだ。イケアは素晴らしい、また行こうという気にさせる絶妙なセルフサービスのシステムだ。
タグ:ikea
posted by perabita at 05:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする