2011年06月30日

VICENZA殺人事件

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昨日のブログの中で、ヴィチェンツィアの街の中に、恨み言を書いた碑が残っていると書いた。もっと詳しいことが分かったので、写真をこちらに移して、改めてこの事について触れてみる。
この碑は、ヴィチェンツィアの大通りコルソ・パラーディオのティエーネ宮殿がある広場に近いところにある。回廊の中で、家の入口の柱に刻まれている。碑の訳はこうである。
「この場所は、極悪非道のガレアッツオ・ダ・ローマの家があったところだ。これらは、イゼッポ・アルメリゴとその他のあわれむべき共犯者達とが、残忍な殺人をこの都市で、1548年7月3日に行った。」
という、名指しで、共犯者の名前もあげて、訴えている。この碑は、私が30年以上も前に居たときに、友人から、こんなことが書いてある、と教えてくれた。
ことの起こりは、碑にあるガレアッツオの妹のイザベッタは、ヴァルマラーナ男爵の息子の一人、アルベルトに恋してしまった。しかも、イザベッタよりも20歳も年下だ。イザベッタは自分の娘をアルベルトとの結婚に申し出たが、拒否された。これにガレアレアッツオは腹を立て、ヴァルマラーナの家族を殺すという脅迫状を送るようになった。そして、ガレアッツオは財産を少しずつ売り、最後には全てを売り払ってしまった。そして1548年7月3日に、弟のレオナルド、イゼッポ・アルメリコとその他は、ヴァルマラーナの家に押し入り、アルベルトと彼の二人の兄弟、二人の使用人、友人の弁護士モンツィアを殺してしまった。
この事件の後、ガレアッツオはコモに逃げ、そこで家族をつくり貴族になった。レオナルドは軍隊に入る。そしてイゼッポ・アルメリコはフィレンツェで絞首刑となった。
まさに、犯罪史に残るほどの残忍な事件だ。でもこれが、20歳も年下の男に恋したことがはじまりというから、何とも血の濃い、イタリア的な話だ。ガレアッツオの家は取り壊され、その後に建てた人(被害者の関係者かもしれない)が、この事件を、その家の柱に刻んだ。このことだって、おぞましい事件を、普通なら忘れ去りたいというところを、後世に伝えようという尋常ではない精神。都市の記憶、歴史とはこういうことだ、と思った。
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2011年06月29日

思い出の街VICENZA

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今から30年以上前にこの街を訪れた。はじめてヨーロッパに来て、最初に滞在したのがこの街だ。ヴィチェンツィアにはルネサンス時代の建築家パラーディオがたくさん建物を建てた。今回は、パドヴァに用があったので、その帰り道に寄ってみた。古い街は変わらないと思っていたが、そうではなかった。たくさんのものが昔とは違っていた。
パラーディオの傑作は、この街の広場にあるバシリカだ。この建物、ルネッサンス時代に、すでにあったものの周囲を新しくつくりかえた。白い大理石は、今回さらに掃除と修理が行われていて、さらに白く、昔のイメージとは違っていた。後ろには市役所があり、多くに人と知り合ったが、今はほとんどが定年退職している。この広場での、たくさんの若者と知り合ったが、今はどこで、何をしているのだろうか?
パラーディオは、一体何をしたかって。それは、それまでの中世の建物は厚い壁に小さな窓を開け、暗く、統一されていなかったが、このパラーディオによって、正面はこの回廊によって、開放的になり、ギリシャ・ローマ建築の様に、様式的な建築を作ったのだ。掃除がなされて白くなったことで、このことがより強調される。このスタイルは、ずーと継承され、最後はアメリカのホワイトハウスまでが、同じスタイルが受け継がれている。

この街に、恨み言が書かれていたのを思い出した。も一度見たかった。この家の実名入りで、誰々と極悪な共犯で、1548年7月3日に市内で、殺人を犯した。ということが、柱に記されている。だれもそれを消す人もなく、書いた人の恨みは永遠に伝えられる。都市の記憶は永遠なのだ。

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この美しい景色の橋のたもとに30年前はペンションがあって、私はそこに1か月くらい滞在した。でも美貌の未亡人のオーナー、マリアは10年くらい前に亡くなり、今は人の手に渡っている。その頃のペンションの住人は今はどこに?

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そして、駅で電車を待っていたら、オリエントエクスプレスが通り過ぎた。ロンドン・ヴェネツィアで一泊二日の優雅な旅だ。私は、ちょうど今、オリエントエクスプレス殺人事件を半部まで読んだところだった。
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2011年06月27日

夕日のスポットライト

久しぶりに自転車専用道を走って、ゴルゴンゾーラの公園にたどり着いた。日はすでに西に傾き、しばらくすると日没だ。この時が、斜め横かららの光が木々や水辺を照らす。自然のスポットライトだ。普段見ているのとは違ったかたちで光が花や草や幹に光があたる。黄色い光だけど、あたたかく、強く、背景から姿を浮かび上がらせる。影は、昼間以上に強調され、くっきりとシルエットを作り、長く強調する。私は、こんな夕日が好きだ。一日のなごりというよりは、まだまだ輝きと影のコントラストを主張する。

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タグ:夕日
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2011年06月25日

地下鉄の文学

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こういうのに遭遇すると、イタリアってどんなにすばらしいところだろうか、と思う。というのは、数年前にもあったのだけれど、地下鉄の通路にパネルがあって、そこに13冊の小さな、薄い冊子が置かれている。短編や、詩や、童話や、物語が語られている。いわば地下鉄の文学だ。偶然、用があって通り過ぎたランブラーテの地下鉄の通路で見つけた。私は全部を一冊ずついただいた。しかし、No5が不足している。別の駅に行ったら、全部ない。たぶん人通りが多くて、直になくなったのだ。では反対の人通りが少ない方に行ったら、ゲットすることができた。どの冊子も表紙がきれいなイラストが描かれている。
その中で、地下鉄8年目の記念の特別1等賞があった。ファットーレという人の631というタイトルの短編。それは、1942年から1945年にかけての物語で、少年は12歳。父は戦争にいった。父の職業は路面電車(トラム)の運転手。1943年に、ミラノは爆撃があり、街は瓦礫と化し、トラムもその被害にあった。少年は、父の運転していたトラムが心配となり、車庫を巡って探す。そのトラムは、歴史的には1924年から1928年の間に作られた最初のトラムだ。時速38キロ、75人乗りで座席は22席しかない。これが600系とよばれ、タイトルの631というのはトラムのいわば車体ナンバーだ。しかし、一台も631は見つからない。その理由は、当時ミラノに居たドイツ軍が、押収してしまって、モナコバビエラに送ったらしい。戦後になって帰って来た、という。少年のひたむきな父のトラムを愛する気持ちが出ている。
少しずつ楽しむことにする。これで10年続いたらしい。そのときに居合わせた人だけが、小さな楽しみにあずかることが出来る。
タグ:文学 地下鉄
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2011年06月21日

イタリアに玉子焼きがない理由?

最近は山に行くようになって、弁当を持参することが多くなった。中身は、豆ごはんにおかずだ。しかしこの豆ごはんのおかずにピッタリくるものがない。この前はコンビーフの缶詰にインゲンをゆでたものだった。その前はソーセージだった。そこで、はたと思った。玉子焼きだ。これは昔からお弁当の友というか、必ず入っているべきものだ。そこで、今回フライパンで玉子焼きを作ろうとしたらうまくいかない。薄焼きやオムレツはできるけど玉子焼きは無理であることを発見した。
そうだ、四角いフライパンが必要だ。で、近所のスーパーや料理道具の店をまわったが、オーブン用の四角いサラは売っているが、玉子焼きができる四角いものは無かった。しばらくして、無印の店に売っていることが判明、早速本日購入したのがこの写真だ。最近はイタリアでもスシが流行で、玉子焼きを作るらしい。

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なぜ、四角いフライパンが無いのかという疑問から、フライパンの由来をしらべてみた。というのは、料理は料理をつくる道具とともにあるもので、ある意味では料理は文明の産物に違いない。例えば、ゆで卵をゆでるには器が必要で、お湯が沸く器をつくる技術が無いと、ゆで卵は出来ない。最初に食べた人は、器の所有者で、高度な技術が背景にあったに違いない。ではフライパンはどうか?古代ローマではすでにあって、ポンペイでも出土している。Patella(イタリア語はPadella)と呼ばれ、金属をたたいてサラ状にして、柄を付けた。主に、油で揚げるか、炒めるのに使ったと言われている。17世紀に入って、現代のフライパンが出来、素材は鉄をたたいて作った。だから、たたいて作るからには、やはり円くなる。四角いフライパンは不可能なのだ。では、ニッポンの玉子焼き器はどのように作成するのか。それは、板状の金属を四方折り曲げ、箱状にしたものに柄をつけた。
だから、円いフライパンでできるのは、一回だけ二つに折り曲げるオムレツと相場が決まっている。これで、ヨーロッパには玉子焼きが無い理由がわかった。ついでに、フライパンの柄の長さは、円の直径と同じだそうだ。知らなかった。
posted by perabita at 16:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする